2020年、夏。
わたしは戦っていた。
──奴らは知らず知らずのうちに、血の匂いに誘われやって来た。白き体毛に覆われた天使が齎したのは、黒き悪魔との邂逅。
奴らが生き延びるためにわたしを襲うように、わたしは生き延びるに……なんの罪も無いその悪魔たちを、罰するしか無かった。
れもん vs ノミ
ファイっ
きっかけなど、本当に大したことではない。
家の近くにかわいい猫が遊びに来たので、数日連続で触れ合った。
それだけのこと。
でも間違いなく、それが戦いの始まりだった。
その毛深い天使は、我が家──恐らくはわたしの衣服や身体に、とある「落し物」をして去っていった。
そう、それこそが黒き悪魔──ノミ。
全長数ミリの寄生昆虫。肉眼で捕えることは至難の業。
その跳躍力も発見を阻害する一因だ。瞬間にして視界より消え失せるその様は、さながら闇夜に紛れるヴァンパイア。
加えて、ノミに刺された後の痒みとその継続期間は、蚊のそれを遥かに凌駕する。定期的に薬物を塗布しなければ堪えきれるものではないし、そもそも薬が聞き辛い(何でだろう)。掻き毟ろうものなら傷跡が残り、そうでなくともノミの吸血痕は痒みが引いても黒ずんで残り続ける。
奴らは──ノミは本当に悪魔だ。
とある日。
わたしは通算10匹目のノミを潰し、殺した。
だが同時に……9箇所。未だに完治せず、果てしない痒みを感じる箇所が執筆時点で9箇所、わたしの体には残っている。
どうやらノミは……我が家で繁殖しているらしかった。わたしの血を糧として。
翌日。2匹潰した。
小さいヤツと、大きいヤツ。
つがいだったかもしれない。親子だったのかもしれない。でも知ったことではなかった。痒みで眠れない夜が続く苦痛を終わらせられるなら、幾らだって退治できる。
もう慣れた。
見つけるのも上手くなった。
──そもそもは猫を可愛がりすぎたわたしに非があるにも関わらず、虐殺に近い形でノミは毎日死んでいった。
彼らは生きるために血を吸っていただけなのに。
だから何なんだよってね。
下等生物如きが人間様に迷惑かけてんじゃねぇよダボカス。
ともかくはノミの増殖防止と駆除が火急の目的となった。
猫との接触は辞めた。
見つける度に躊躇い無くカーペットローラーで轢き潰した。
それでもなお戦いは続く。こうなればどちらかが滅びるまで争い続けることとなるのだろう。
そう思いながらまたノミを潰した……ある日ある時。
わたしの視界にとある物が映る。
赤い缶。緑のラインに、これまた赤いロゴ。
そう、かつて小バエとの戦いに終止符を打った《救済の煙》、アースジェット。
もしかしたらノミも†救済†出来るかもしれん……。
そう考えたのが、滅びの始まりだった。
わたしはノミの潜んでいそうな隅っことか角っことか隙間とか、そういうところに向かって無闇矢鱈にアースジェットを噴射。
部屋はスプレー缶のむせ返るような臭いで満たされる。噴射気体を吸入しては流石にマズいと判断し、3分程部屋の外で待機。
しばらくして部屋を覗くも、その時は──特に変化は見られなかった。
その晩。わたしは高笑いした。
フローリングで見つけたのは一匹のノミ。正に息も絶え絶えといった様子で、今にも事切れそうな、そんな情けない悪魔の姿だった。
もはや大きく跳躍する余力もないのか、近づいても小さくミョンミョンと跳ねるだけで、そこにヴァンパイアを彷彿とさせるような能力は欠片として残されていなかった。
「すっげ、すっげ!アースジェットノミに効くって書いてないのに†救済†できんじゃん!ギャハハハ!」
他にも弱った様子のノミが3匹。発見次第、即座にカーペットローラーで轢き潰した。爽快だった。
それは勝利に違いなかった。
決してノミを撲滅した訳では無いが、明確な対抗手段を手にしたわたしは、もはや向かうところ敵無しだった。
わたしは毎朝家を出る前、めぼしい場所にアースジェットを吹きかけるのが日課となった。
ちなみにムヒは3本空になるくらい使った。
めっっっっっっっちゃ痒い。
──だが。
「……あれ」
アースジェット駆逐戦法を継続して数日たった頃。
頭痛がしだした。吐き気もだ。
勝者であるわたしが……具合が悪い、だと?
そう、わたしは体調を崩した。
多分れもん自身も知らず知らずのうちにアースジェットを吸って、弱っちゃったんだと思う。
ベッドとか枕とかにも薬品が着いてたんだろうなぁ~…。
皆さんも使いすぎには注意。
それで……体調を崩したのをきっかけに、わたしはアースジェット駆逐戦法は控えるようになった。我が身がかわいいので。
幸い、ノミもほとんど見ることがなくなっていた。なんとなく
──勝者、れもん。
という感じのテロップが脳内には流れていた。
しかし、アースジェット駆逐戦法をやめて3日。
今度は両足4箇所をノミにやられた。ふざけるな。
あの戦いを生き抜いた猛者がいた。そんな猛者たちは生命の糧を求め、わたしの足にかぶりついたという訳だ。
問題は、それ以降アースジェット駆逐戦法をやってもノミが元気いっぱいにはね回っていたこと。
……既におわかりの方も多いと思うが、そもそも
アースジェットはノミを倒せるだけの効果は持ち合わせていない。
効いてせいぜいダニまでだ。
……これはあくまで推測なのだが、アースジェット駆逐戦法中に弱ったノミたちは、実はそういう「演技」をしていたのではないだろうか。
クモだって強大な敵と相対した際死んだフリをする種もいる。イエグモ、アシダカ軍曹だってよくとる戦法だ。
ノミの場合、結果的にわたしに潰されはしたものの、それは油断を誘い他の仲間を生かすための「演技」だったと捉えることもできよう。
あるいは、アースジェットへの「耐性」を獲得したとも考えられる。
わたしの部屋の中でノミという生物が進化を遂げ、アースジェット程度では弱らない強靭な肉体を手に入れたやもしれん。
さらに、あれだけの量を噴射して人間だって体調を崩さない訳が無い。わたし自身もやり過ぎたというか、アースジェットを過信しすぎたと言うか……。
──ならば、
わたしは、敗北したことになる。
──勝者、ノミ。
ふざけんじゃねぇよおい。
まだ戦いは終わっていない。
わたしはダニアースレッドを購入した。こいつはノミにも効くスグレモノだ。しかも人間が薬品を吸わないように親切設計がされている。
執筆時点ではまだ使用していないが、恐らくは絶大な効果を上げるであろう。
──未来の勝者は、わたしだ。
次回、れもん vs カビ