ふと肌に触れたこそばゆい感覚。左の腕、手首から10センチほど下の辺りだ。
けれどもそれは直ぐに消え、わたしの視界を小バエが横断していく。
──あぁ、くすぐったかったのは君が止まっていたからか。
直感的にそう推理したわたしは、あろうことかその瞬間に日頃のストレスとか、鬱憤とか、そういうのが爆発してしまった。
ハエが自分の腕に止まっていた。その事実が解せない。これは殺さねばならぬ。何故かそう考えた。
今思うとよほどに疲れていたのだと思う。
れもん vs 小バエ
ファイっ
憤慨しつつ、わたしは両の手のひらを中空にて構える。いつ視界に小バエを捉えても即座に迎撃できるよう、攻撃態勢を整えたのだ。
幸いそいつは正の光走性──すなわち明るいものの方へと進んでいく特性を持っていた。電灯の下に構えていれば、そいつをいずれ捕捉するのは必然。余裕の勝利を確信したわたしはほくそ笑み、今か今かとその時を待った。
……そして、その時が来る。わたしの予見しない形で。
右の手の甲、つい先程と同じこそばゆさをそこに感じる。
なんたることか、不敵にも小バエはわたしに宣戦布告でもするかのごとく、そこに居た。
しかしこれは好機。即座に殺生してやろうと左の手を振りかぶる──が、その時点で小バエは飛翔。わたしの視界からいとも簡単に逃げおおせた。筋肉が電気信号に反応するまでのタイムラグが原因か。
……いいや、違う。小バエ程度の速度であれば、全力を持ってして挑めば先の一撃で勝負は決していた。
〝小バエ如き瞬殺だろう。〟
己が内にあった、そんな慢心。それこそ、先程しとめきれなかった原因であるのは違いなかった。
まるでわたし嘲笑うかのような……人間をおちょくった小バエの行動。
「貴様如きに俺は殺れんよ」とでも言いたげなそれは、わたしの逆鱗を撫で回した。
「クソがっ」
心から湧き上がった感情を一言、そう吐き捨ててやる。
わたしは再び電灯の下で構え、奴がふらふらと現れ出るのを待機する。
……。
………。
……………。
来ない。待てども来ない。
ものの数分間、わたしは傍から見れば気でも違ったのではないかと思われるような体勢を取り続けながら小バエが現れるのを待ち続けたが、一向に現れない。
生物の本能で危険を悟ったか。
否、小バエはそれほどまでに高等な生き物ではない。いずれはその電灯の光に釣られ、姿を現すはず……。
しかし。
来ないものは来ない。なかなか来ない。
半分ほど小バエの事など忘れかけた頃。
わたしは休憩がてら、飲み物でも飲むことにした。その日は丁度牛乳の賞味期限2日前で、なみなみとパックの中に残っているそれをいち早く消費せねばと思っていたところだった。
普通に飲むのも味気ない。そう思ったわたしはペットボトルコーヒーを用いてカフェオレを作ることに。それならば氷を浮かせて涼し気な様相も楽しめ、一石二鳥だ。怒りを鎮めるためにも取り敢えず休息を。
と、わたしがコップにコーヒーを注ぎ始めたその時だった。
「なッ……」
ヤツは──小バエは。
あろう事かコップの飲み口を「随分と余裕そうだな」と挑発するように徘徊しているッ!
──プッツゥ~ン。
キレた。わたしの中で、決定的な何かがキレた。
「オラァ!」
振り払うような、ビンタにも似た一撃。コップから引き剥がすためのその攻撃で小バエはやむなく飛翔。
しかし当然、その軌道は既にわたしも予測していた。
「オワオワリッ!」
バッチン。
両の手のひらを叩き合わせる音が高らかに、戦闘終了のゴングよろしく鳴り響いた。その手の内には確かな感触があり、直ぐに水で洗い流してハンドソープでキレイキレイした。
──勝者、れもん。
わたしは勝利の1杯と洒落込むため、牛乳多めのカフェオレを一気に流し込む。
ひと仕事おえた爽快感もあり、不味くない訳もなく。よくよく考えれば飲み口に小バエ居たから洗った方が良かったかな。
その時は怨敵を粉砕した興奮でそんな事など気にしていなかったが……ふと、電灯の方を見つめる。
「まさか」
そう、思わず口にした。
「……まさか、そんな」
明るく光る電灯のその下。
小さな虫……間違いない、小バエがそこに居る。何故だ、ヤツは倒したはずでは……?
──いいや、冷静になれ。
わたしは自分にそう言い聞かせた。
わたしは初めから『1匹しかいない』と……そう考えていた。 それが誤りだった、それだけ、それだけのこと。
何ら不思議なことは起こっていない。
………だが。
ヤツの存在が示しいた。
──戦いは終わっていない。まだ勝者は決していないのだと。
「フッ、面白い──」
わたしはそう呟き……
アースジェットを戸棚から取り出した。
「人間様をナメるなよカスが」
うろ覚えではあるが、わたしはそう口にしたような気がする。
アースジェットから《救済の煙》が噴出。
それは僅か数秒で小バエを†救済†した。
──勝者、れもん。
だがこの時。
れもんは迫り来る「第2の脅威」を知る由もなかったのだった──。
次回、れもん vs ノミ